『直江兼続』の検索結果です。
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直江兼続とは>>死後
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4. 死後
兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶した。「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。
兼続が亡くなった際には上杉景勝から銀50枚、徳川秀忠から銀50枚が送られた。
兼続死去から18年後の寛永14年(1637年)に妻・船が死去。兼続と船が行っていた藩政運営は、兼続の右腕として働いていた平林正興に引き継がれた。正興は兼続亡き後の寛永17年(1640年)に製作された往古御城下絵図に陪臣で唯一「殿」の尊称がついており、別格扱いを受けていたことが証明されている。正興によって兼続の祐筆を務めていた木次左近が郡代に就任している等、米沢藩内での直江派閥である与板組の権力は保持され続けた。
上述の通り、兼続と船は直江家菩提寺の徳昌寺に葬られたが、徳昌寺と上杉家菩提寺の林泉寺との間で争いが起こり、敗れた徳昌寺は越後に逃れた。直江夫妻の墓石と位牌は東源寺に移され、後に藩庁の裁定により林泉寺へと再び移された。位牌と遺骨は東源寺に残されたともいわれ、現在でも埋葬地について異説がある。分骨が高野山清浄心院に納められている。なお新潟県長岡市に現存する徳昌寺には、米沢追放時に遺臣によって移されたとする直江夫妻の位牌が祀られている。
当初の法名は達三全智居士であったが、100回忌の時に法名が追加されて英貔院殿達三全智居士となる。
大正13年(1924年)2月11日、宮内省より従四位を追贈された(なお、改名後の重光ではなく、兼続に対して追贈されている)。この様な経緯から重光ではなく、後世に兼続の名で知られることになる。
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